歴オトコ探訪記

11月3日は文化の日。
全国的に祝日であります・・が、
単身赴任生活者にとっては、1日ポッチの休みでは帰るわけにもいかず
本日は部屋の掃除・布団干しで一日を終えようとした分ですが・・・・
余りにも雲一つ無い良い天気。
こんな天気になることが分かっていたら相方と長野あたりで待ち合わせして
どこかの山にでも登れたのだが、
後の祭り・・・
 
しかし、しかし、シカシ・・・部屋にくすぶっているのも勿体ないので。
 
久方振りの「歴男」になりきり、
ライフワークである武田家の足跡をたどるドライブに(少し大げさか??)。
 
 
車でひとっ走りすると、
「設楽が原の戦いの場」に到着。
国道151号線から直ぐのところ
 
世にいうところの「長篠の戦い」は、
「長篠城の攻防戦」と
「設楽が原の決戦」に
分けられます(この辺りから歴男ぶりを発揮)。
 
設楽が原の決戦は、信玄没後も当時最強を誇っていた武田軍が、
織田・徳川連合軍に馬防柵と多数の火縄銃の前に敗れた戦で
日本史上重大な意味
(織田氏の覇業に向かった、そして本格的な鉄砲の時代へ)
をなした戦いでした。
 
有名な長篠合戦図屏風。馬防柵左手側が織田・徳川連合軍。右手が武田軍。
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 この図を写真でみると左手の森に家康本陣。稲の刈り終わった田んぼの中を連吾川が流れていますが(屏風図の中の川)、馬防柵はこの連吾川と本陣との間に作られました。
 
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連吾側沿いに歩いていくと
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森の傍に復元された馬防柵がつくられています。
田んぼの傍にあると稲干し用のハデの様にも見えます。
 
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 ほぼ、この位置につくられていた様です。
設楽が原という位なので、広い原野が戦の舞台なのかと想像していたのですが以外でした。
  むしろ、狭い川ですが、田んぼから2mほど下がった位置で流れている連吾川が騎馬の侵攻を防ぐのに有益だった様にも思えます。
  この場所で、僅か10時間足らずの戦で武田軍10,000人、織田・徳川連合軍6,000人が亡くなったといわれている激しい戦いが繰り広げられたとは想像できない長閑な田園風景の設楽が原。
秋の濃い青空を眺めながらの散策でした。
 
そして、この場から車で10分たらずで長篠城に。
設楽が原の戦の前哨戦で長篠城の攻防戦が繰り広げられるのですが、
有名な話は鳥居強右衛門(すねえもん)の磔刑。
ご存知無い方の為に・・
 
長篠城は武田軍が信州の山間から三河に出るところにある戦略的に重要な城。(設楽が原の戦いは、この城の攻防戦が発端。)
 
当時、徳川方に降った城を武田勝頼が15,000の大軍を率いて取り囲みました。
  城には奥平貞昌以下500名の城兵で防いでいましたが、織田・徳川への救援使者として鳥居強右衛門が城を脱出。岡崎に行き織田・徳川の救援を求め快諾を得たが帰途、城外にて武田側に捕らえられた。
この時、武田軍から、城兵の士気を低下させる為に援軍は来ない。あきらめて早く城を明け渡せ」と城に向かって叫ぶよう命令された。強右衛門はこの命令を表向きは承諾し、見通しのきく場所へ引き立てられた。しかし、最初から死を覚悟していた強右衛門は、城内に向かって「あと二、三日のうちに織田・徳川の援軍が来る。それまでの辛抱である」と、勝頼の命令とは全く逆のことを大声で叫んだ。これにより磔刑にされたのですが、この忠義心に感動した武田氏の家臣の一人が磔にされている強右衛門の姿を絵に残したものが現存。⇒写真撮り忘れたので興味のある方はWEB検索してみて下さい。(Wikipediaより引用)
 
長篠城は、151号線長篠大橋を渡り1分ほどのところを右折。
長篠城址史跡保存館が開館している。
本丸跡ですが特徴らしきものは??イメージ 5
 
 
  保存館2Fからは、鳥居強右衛門が城に向かって叫んだ場所が表示されています。電信柱のところだそうですが????。
 
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現在では城周りに木々が生い茂っており城の全貌をみることができませんが、攻防戦のあった当時はどうだったのでしょう。
豊川と宇連川に挟まれた要害の城だったようです。
 
時間があればもう少し周辺を散策したかったのですが、
部屋で布団も乾しているので
心残りながら、早々に東海BCに戻ることに。
 
今週末もお天気は今ひとつの様子。
今年は紅葉を見ずして終わるのか・・・・・
 
 
 

 梅雨前線が日本列島を跨ぐ本格的は梅雨。
 西日本では大雨
 
 てな事でこの週末は山歩きは断念。
 
 名古屋にいる長男MACと週末に移動してきた相方の3人で
 雨の岐阜ドライブ巡り。
 
 犬山城   
 日本で最も古いお城で、天主は江戸時代前後に築造されたもの(修復あり)。
 別名白帝城。木曽川の沿いの丘の上に築城されたお城でその姿を中国の長江にある白帝城にちなんで命名されたそうです(白帝城は三国志劉備玄徳が没した城ですね)。
 
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 MACの勤め先に外人のお客さんが来ると観光でつれてくる定番のコースだけあって、案内標は日本語・英語・スペイン語・韓国語・中国語と国際的。
 
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 お城の中は、急な角度の回廊が天主に向かって続きます。階段のステップ高さが50cm近くはあり、手すりがなければ登るのも困難。
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 格子から見える木曽川から涼しい風が吹き抜けます。
 
 
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 犬山橋を望む。
 お天気であればこの方向に御嶽山が展望できる。
 
 
 ↓ 天主より南方面を望むと地平線上に低い丘が見えます。
 これが小牧城です。
 
 小牧・長久手の戦いでは、小牧城に入った徳川家康と犬山城に入った豊臣秀吉が、この視界でにらみ合っていたのですね。
 
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 MAC曰く、愛知・岐阜は戦国時代の舞台になったところで、いたる所に史跡が
残っており歴史好きには堪らない土地柄。
 少しずつ足跡をのこしていきましょう。
 
・・ということで、犬山城を後にした我々ご一行は41号線を北上し日本三大名温泉の下呂温泉でゆっくりし、雨の岐阜の山越えから郡上八幡で夕食と、後半は土砂降りの中のドライブを楽しみました。
 残念ながら郡上八幡ではゆっくり出来なかったので、次回の楽しみということで・・・・。
 
 
 
 
 
 
 

武田家終焉の地 景徳院



 大菩薩からの帰路、武田家終焉の地、景徳院に立ち寄ってきました。
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 景徳院は、織田・徳川連合軍に攻め立てられた武田勝頼一族郎党約50名が自害した田野の旧地です。景徳院は入国した徳川家康が勝頼一族の菩提を弔う為に建立されたお寺。
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景徳院参道の階段を上り、左手に折れて暫くすると更に山門に続く階段を上っていきます。
階段を上りきると、桜の花びらが散り新芽の出始めた桜の枝に囲われる様にした立派な山門が目の前に現れます。
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ここで山門に入らず右手に回ると勝頼主従の墓とその位牌をまつる甲将殿があります。この建物の裏、勝頼公と北条夫人そして嫡男信勝公の墓があり、 更に、甲将殿前面の杉木立ち下に、少し生々しい話ですが、勝頼親子が自害された場所として3人の生害石(自ら命を絶つ為の場所として選んだ石のこと-この石の上で自害されたのか?)が祭られていました。
写真は勝頼公と北条夫人の生害石、そして辞世の句です。
北条夫人は、この時、享年19才。長篠の合戦で破れた武田が北条との同盟を堅固にする為に武田家に嫁いだ夫人だったが、上杉家の御館の乱で甲越同盟したことで北条との同盟が破綻。戦国の世の習いでは実家に戻る事もできたそうですが、勝頼の傍を放れず夫に尽くした先の悲劇です。戦国の世と言えども、犠牲になるのは女性ばかりか・・・。
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再び、山門に戻り本堂に向かいます。
景徳院は過去数度の大火にあっていますが、この山門だけは難を逃れ建立当時の間々とのことです。
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本堂で参拝した後に本堂左手から再び甲将殿境内へ、そして総門におりる小道傍に勝頼親子の首無し遺骸を葬ったといわれている没頭地蔵尊を廻って駐車場に戻りました。

駐車場からの景徳院。杉林の奥に甲将殿・本殿。人家の右側に総門があり、そこから登ります。
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 栄枯盛衰、最強騎馬軍団武田家が長篠合戦から数年でこの大和村の地で武田家が終焉。 「人は石垣・・・」武田節の一説ですが、信玄の時代には造らなかった城を勝頼の時代に造ろうとした自体(新府城)が勝頼自身、前の時代からの差を認識していたのでは。そして、人の裏切りによって身を滅ぼすことになった・・哀れの一語です。

さて、昨年秋より題して「松姫逃避行」の道を歩くとして信松院から陣馬まで歩いたわけですが、松姫は勝頼一行とは同行していなく、塩山の向獄寺に滞在し難を逃れ武州八王子に向かったといわれています。
一行の中には勝頼の幼い娘もいたそうです(勝頼に同行していた女人達は日川に身を投じ殉死していたので松姫と一緒でよかった。)。・・ということで、今回の探訪記は松姫逃避行には残念ながらつながりませんでした。

ところで、正史から外れますが、我が郷里土佐に「武田勝頼落人伝説」があります。
WEBでもでている様ですので興味のある方は・・・・。

そういえば、私の学校の先輩に「武田」さんという人がいましたね。
武田節が十八番でした(笑)。

歴オトコ 明日香村参上
大台が原からの帰りのルート。計画では、伊良子フェリーで対岸に渡る予定。
でも、「せんとくん」で賑わう奈良にも未練。
昨晩宿泊した宇陀の近くが明日香村、そして、教科書でおなじみの石舞台も近くにあることに気付き、予定変更し明日香村へ。
 
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明日香村に到着するや古代史の教科書で学んだ遺跡が、あちらこちら。
一般の観光客の皆さんは、レンタル自転車を借りて遺跡周遊。
うちら夫婦は、時間も無いので、迷わず石舞台に直行。
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お馴染みの石舞台。
昨日の御在所岳のオブジェは自然ですが、これは人工の玄室が地表に露出したものといわれる。被葬者は蘇我馬子が最有力。
嘘か誠か、月の夜に狐が美女にばけて、この上で舞ったことから石舞台という言い伝え。
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玄室の中は、こんな感じ。
 
石舞台には、今日は30日。全国の小学校、春の遠足としている学校が多いのでしょう。明日香村の子供達は古墳めぐりかな?
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 石舞台から少し下りると、大津の皇子が葬られている有名な二上山が遠望できます。天武天皇の後継者でありながら、ママ母持統天皇に無実の罪(我が子可愛さで)をきせられ自害し二上山に葬られてわけです。二上山は、大津皇子の姉の万葉集に詠まれています。
(古代史も大河ドラマにすると面白いストーリが出来るのですが、今は戦国時代か明治維新ばかりですね・・・)
 
うつせみの、人にある我や、明日よりは、二上山を、弟背と我が見む
                    大伯皇女(おおくのひめみこ:大津皇子の姉)
       意味: この世に生きている私は、明日からは二上山を弟だと思って見るのでしょうか・・・・・
 
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まだまだ、楽しめそうな奈良の旅ですが、今回は時間切れ。
このまま、東海BCにトンボ帰り。
翌日には、八王子へ 
 
 

歴オトコが行く 東三河歴史探訪


今週末は、名古屋で生活している愚息MACと新東海BCにてくつろぐことに。
MACは5年前から名古屋で働いているわけですが、私に負けない「歴オトコ」。
この週末の土曜日は、武田VS徳川・織田攻防戦の主戦場であった東三河歴史の旅と洒落込みました。

豊川ICから151号線を北上すると直に野田城の案内標識。
野田城は、三方が原で家康を撃破し破竹の勢いで侵攻していた武田軍が進撃を止め結局甲斐へとUターンした城です。今回は立ち寄りませんでしたが、黒澤映画の「影武者」ではこの城の攻防戦で城内から信玄が狙撃されたこととなっています。

151号線を更に進むと長篠合戦場にアクセスできるのですが、武田贔屓の小生にとっては踏み入りたく無い場所なので(今日は、甲府で信玄公祭りです)パス。ルートを301号線にとり北上。

【亀山城】


301号線 「つくで手作り村」道の駅の背後の小高い山城が亀山城。
MACの職場の先輩が、この亀山城主であった奥平氏の子孫とのことでMACの思入れも強い城。信玄の三河侵攻では、奥平氏は、武田氏に降りて三河攻めの拠点となった城なのですが、信玄の死後、徳川側に再び降りる為、城から脱出します。この後に長篠城主となり長篠合戦で歴史の表に登場。

道の駅周辺は菜の花満開、のどかな田園風景。
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山城といっても小さな岡です。
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山頂の本丸は桜満開。
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【武節城】

「つくで手作り村」道の駅を後にして301号線から県道35号・420号線・257号線から第二の目的地-武節城を目指す。途中、土手の桜並木、花満開。
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153号線に少しはいったところに道の駅「どんぐりの里いなぶ」。その後方に武節城跡です。道の駅の下には、日帰り温泉「どんぐりの湯」。駐車場は満車状態。
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この城は、長篠の合戦で敗れた武田勝頼が苦難のすえに落ち延びた城。勝頼はここで梅酢湯を飲んで心身の労を休めて甲斐へ帰ったといわれた城です。

【明智城】

再び257号線にもどり矢作ダム湖畔経由で大正村明智城に。
明智城は光秀出生の地とされているがこの他に可児市にもあり、どちらが真実なのか不明。
城は、街全体を大正時代の雰囲気を残したテーマパーク日本大正村の東側に位置します。
(↓建物の後方の山です)。
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今回は時間が無いので大正村の町並み散策。
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この街では、年号は勿論「大正」です。大正99年?若しかして来年は大正100年!!
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北側には、何と八王子神社が!!
天照大神の8人の子(5男3女)を祭神とする神社とのこと。
我が実家の八王子神社(八王子城)では仏教の守護神である牛頭天王の8人の王子を祭っていたのでは・・・。これは要調査ですね。
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社殿左横には光秀お手植えの楓の木が残されています。
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ところで明智城主は明智遠山氏で何と「遠山の金さん」のご先祖さんにあたります。
実は、小生の20年位前の上司が、この遠山氏の子孫です。この様なルーツがあると良いですね。

【岩村城】

本日最後の城は日本三大山城の一つで岩村城。
恵那から明智駅までの明知鉄道に沿って30分ほどで到着。
麓から登ると30分以上かかる山城。
今回は時刻も遅くなったので、車で本丸直下の出丸まで車で上がります。
この城は、美濃・信濃・三河の国境付近に位置し当時の織田氏にとって重要な戦略上の拠点。
当時の城主は、明智城と同様、遠山氏でしたが、織田信長は信長の叔母を嫁がせています。
この叔母は、信長よりも若く絶世の美女だったといわれています。
信玄の三河侵攻時に、武田24将の一人である秋山信友の別働隊に攻められます。
この以前に、城主である遠山氏は既に亡くなっており、難航不落のこの城攻めに秋山は奇策を用います。
何と、信長の叔母に結婚を申し込み婿として入ることでこの城を攻落(攻とは言えない?)させてしまいます。
このことに信長は激怒し、後に岩村城が織田軍に落ちたとき、秋山夫婦を長良川にて磔にしてしまいます。

岩村城 本丸埋門
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本丸埋門 実写
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本丸埋門から本丸に
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海抜721m 日本三大山城 岩村城
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本丸より恵那山方面を望む。残念ながら厚い雲がかかっていました。
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今年は登るのかな?この山。

岩村城から下りてくると日もかなり落ちてきました。

今日は、お昼前の出発だったのでゆっくりできませんでしたが、
東海から岐阜にかけて、歴史に名前が出てくる場所ばかり。

これから、山に行けない日はユックリと歴史探訪したいと思います。

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