武田家終焉の地 景徳院



 大菩薩からの帰路、武田家終焉の地、景徳院に立ち寄ってきました。
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 景徳院は、織田・徳川連合軍に攻め立てられた武田勝頼一族郎党約50名が自害した田野の旧地です。景徳院は入国した徳川家康が勝頼一族の菩提を弔う為に建立されたお寺。
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景徳院参道の階段を上り、左手に折れて暫くすると更に山門に続く階段を上っていきます。
階段を上りきると、桜の花びらが散り新芽の出始めた桜の枝に囲われる様にした立派な山門が目の前に現れます。
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ここで山門に入らず右手に回ると勝頼主従の墓とその位牌をまつる甲将殿があります。この建物の裏、勝頼公と北条夫人そして嫡男信勝公の墓があり、 更に、甲将殿前面の杉木立ち下に、少し生々しい話ですが、勝頼親子が自害された場所として3人の生害石(自ら命を絶つ為の場所として選んだ石のこと-この石の上で自害されたのか?)が祭られていました。
写真は勝頼公と北条夫人の生害石、そして辞世の句です。
北条夫人は、この時、享年19才。長篠の合戦で破れた武田が北条との同盟を堅固にする為に武田家に嫁いだ夫人だったが、上杉家の御館の乱で甲越同盟したことで北条との同盟が破綻。戦国の世の習いでは実家に戻る事もできたそうですが、勝頼の傍を放れず夫に尽くした先の悲劇です。戦国の世と言えども、犠牲になるのは女性ばかりか・・・。
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再び、山門に戻り本堂に向かいます。
景徳院は過去数度の大火にあっていますが、この山門だけは難を逃れ建立当時の間々とのことです。
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本堂で参拝した後に本堂左手から再び甲将殿境内へ、そして総門におりる小道傍に勝頼親子の首無し遺骸を葬ったといわれている没頭地蔵尊を廻って駐車場に戻りました。

駐車場からの景徳院。杉林の奥に甲将殿・本殿。人家の右側に総門があり、そこから登ります。
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 栄枯盛衰、最強騎馬軍団武田家が長篠合戦から数年でこの大和村の地で武田家が終焉。 「人は石垣・・・」武田節の一説ですが、信玄の時代には造らなかった城を勝頼の時代に造ろうとした自体(新府城)が勝頼自身、前の時代からの差を認識していたのでは。そして、人の裏切りによって身を滅ぼすことになった・・哀れの一語です。

さて、昨年秋より題して「松姫逃避行」の道を歩くとして信松院から陣馬まで歩いたわけですが、松姫は勝頼一行とは同行していなく、塩山の向獄寺に滞在し難を逃れ武州八王子に向かったといわれています。
一行の中には勝頼の幼い娘もいたそうです(勝頼に同行していた女人達は日川に身を投じ殉死していたので松姫と一緒でよかった。)。・・ということで、今回の探訪記は松姫逃避行には残念ながらつながりませんでした。

ところで、正史から外れますが、我が郷里土佐に「武田勝頼落人伝説」があります。
WEBでもでている様ですので興味のある方は・・・・。

そういえば、私の学校の先輩に「武田」さんという人がいましたね。
武田節が十八番でした(笑)。